1月31日 1月はいろいろなことがあった
この絵はベニア3枚を貼り合わせてもらって、札幌のコンカリーニョ・夏のイベントでの壁を飾る、そしてイベントを間借りしての個展でもあった。その時の作品。
照明屋さんが、青ペンキがとても鮮やかに見えるライトを当ててくれて、考えようによっては照明屋さんとのコラボでもあった。
ありがとう照明屋さん。
2023年、1月はいろいろなことがあった。これからもいろいろなことがある。
果敢に生きていかなくちゃならない。私は、自分では屁理屈では決してないほうの理屈を考えている時には、嘘偽りがなく、自分本来の筋道で、自分自身に向かって、「それは的確だ」と思えるように、考えているつもりをしている。
でも、自分では分からないところで、非常に皮肉屋になっているかもしれない。そうだとして、それがどこが?っていうのが、自分では分からないけれど。
いわゆる、「笑いのツボが違う」というのと同じ事になっているのかもしれない。
自分では分からないんだけど。
それはそうとして、
いろんなことがある。
5年以上ものあいだ止めていたタバコを復活させてしまった。
タバコって快楽だなと、思いながらコンビニに行くと、もうどこの店も灰皿撤去してしまっている。本数は、少なくなったけど、部屋でスパスパ吸っている。
部屋は狭いし、この調子だと今に友達にもバレる。
甥っ子と、タバコのそんな話をしていて、ストレス発散であるにしても、タバコが、自分でニンジンを目の前にぶら下げて自分を奮起させているような事態が本末転倒になっているようなものだとして、それって要は、たとえ、勝利の暁に燦然と輝く栄光がタバコであったとしても、ニンジンみたいなものだったなら、依存と同じじゃないか。と、それを「依存」だと私が言うと、「依存」という言葉には、どうやらマイナスのイメージしかないようで、「依存」という言葉に反発を感じているようだった。
こちらサイトの、「日記」の中でも、「依存」という言葉を、迷いながら使った日記があって、やはり「依存」という言葉は、一般的に的確とはいえないようだから、変えたほうがいいかな・・・・・・・・・・・。と、迷う。
谷川俊太郎の詩を、ツイッターで紹介していたツイートのなかで、「絶望の色は白」という、結語のように、しめくくる詩を先月か今月、読んだ。
谷川俊太郎は、まるで臓器の中心を狙うような、言葉で、例えようがないが。
最近になって、以前にも増して好きだと思えるようになった。
そこで、だから何を言ってもいいというわけにはならないけれど、ふと、谷川俊太郎は、自分自身をコケさせたかったんじゃないだろうか?と思った。
思いっきり、間違いや茨の道みたいなざっくり自分に返ってくる間違いをしたかったんじゃないだろうか?生きている間に。
などと、ふと、最近、その詩が頭に浮かんでそう思った。
何を思ってもいいというわけではないだろうけど、余白に、鼻くそくっつけちゃったみたいなことを考える。
私は、自分では分からない性格のわるさがあるんだろうか?・・・・・わからないけど。
子供って、ほんと、鼻ほじるよなあ・・・・・・と、思って、甥っ子姪っ子の子供を見ている。
今日の午前中、義理姉が教えてくれた、孫に送ったという絵本のなかの話と、その時、母が話してくれた三歳頃の思い出話を、こんな夜中に思い起こすと遠くなる。あんなに遠いのになぜ見える?という。
2023 1月1日 今日が元旦だなんてなんだか信じられない
この絵は、描いた工程をよく覚えていて、スイスイ、スーイと半日がとてもスムーズに運んだ。油性クレヨンで、輪郭から描いて行って、アクリル絵の具と墨で色塗り、おおまかに仕上げた後に微調整をして、それで出来上がった時に「できた」と思えた。「できた」で終えられるとは自分としては、珍しいことだった。それから知人が言ったひとこと、「この絵、飛びだしてきてるもん」と褒められた時の、その言ってることが印象に強かった。
私の母は、「私は認知症じゃないの、ボケてないの」と言うけれど、部分的にはっきりと症状が出ているのが見えて来ているので、近いうちに病院に一緒に行こうと思う。
「休んでばかりいたら、ボケちゃうから。十分休んだから、大丈夫」と言う。咳を、時々コンコンしている。父は、記憶力は明晰で、性格は変化がなさそうに見える。タバコを吸うので、時々、咳込んでからグエエエエエ、グエ!グエ!ガー!と、凄まじく痰を吐き、時々ぐったりしている。二人とも、薬の種類は三つ以上を飲んでいる。
昭和の、昔の母みたいな人は、みんな真に働き者なんだろうか。道徳心と労働意欲が嘘偽りなく結びついて、身についているので、「休んで羽を伸ばしたい」みたいなことは、考えにないように思える。「蔵を建てたらだめだって言うでしょ」「へー。なんで?」「ナマクラって」と、絶妙な間を置いて、昔話のように話す。曽祖父母から聞き覚えたこと習い覚えたことを、宝物のように大事にしようとしているように見える。
私は、生と死を越えて、いよいよ死ぬと、「生と死」ではない別な世界があると信じようとしている。「向こう」と指させる方向があると、信じようとしている。
でも、決定的なのは、死は別れでしかないので、自分がどういう死に方をするのかということよりも、いざ自分ではなくて身近な人が死ぬことを考えたりしたら、自分の哲学ノートと称しているつもりのブログのエッセイ、哲学、思想、ぼやきなど、すなわち迷妄どころではなくなる。
コンビニで今朝、買い物をした時、ポイントカードと現金で払うつもりがレジ前に来てから、現金が足りない事に気がついて支払い方法でもたもたしてしまった。レジ打ち直しをしなくちゃならなくなって、店員さんに迷惑をかけた。店員二人が、迷惑そうな顔をしていたので、私は迷惑をかけたんだということになった。
癖で「すいません」を何回も言ってしまって、自分で自分が不愉快になってしまった。
こうして、日本人は、テコでも動かないほど「すいません」とは口に出さなくなるんだ。
あけましておめでとう。
今年もよろしくね。
12月27日 山菜蕎麦をつくる。プレ・年越し蕎麦を披露する
妹が、みかんを2箱持って実家にやってきた。
実家では、義理姉と、出産前後のために帰省している義理姉の娘と、娘の子が2人、集まっていた。私もいた。昨日昼には、夜からの雪予報が入っていたので、暖気でザクザクになったうえに、もしも大量に降りでもしたら車が出せなくなる可能性があると考えて、実家通路の雪はねを、2時間くらいかけてひとりでしていた。
それが、なぜと思われるほど、偶然通りかかった近所の友人Nちゃんにも、近所付き合いのひとにも、サンダルで外に出てきた父や、買い物に出かける義理姉にも、望外のほど喜ばれた。
水分を含んで、ここ1日〜2日の雪はあまりに重過ぎると見たのか、わりと近所でも溶けるにまかせるのみで、そのままのところが多く残されてはいた。
父母と私、特に父と私の関係は、数日来のことで、あれからどうなったのかというと、とにかく、呼ばれたんだ。
なんで呼ばれたんだっけ?・・・・・あ!
母が買い物に行きたいから、車に乗せて行ってほしいと前日に電話で言ってきたので、それで翌日の25日、実家に行ったんだ。マスクをして家の中に入るとメガネが曇って、目の前を白くさせて薄ぼけたままにしていると、なぜかしゃべらなくてもじっとしていられた。
「お前、そこでつったってないで座りなさい」と父に言われるまで、父母が座るテーブルの前で、メガネの曇りに気を取られていたんだ。
一週間ほど前に、蕎麦つゆのかえしを作ってあったので、今日は混合出汁を作って、「試しに作るから、これでうまく行ったら、大晦日に正式な年越し蕎麦作るから、今日の夜ごはんに、蕎麦食べてみてよ」と、約束して、トッピングの具も用意した。鶏肉も、下ごしらえを終えてあったので、温かい蕎麦を何度か試した中では、今日こそ、ほぼ完璧なスタイルで、実家の台所で、さっと蕎麦を茹でて、スマートに提供できる・・・と、真剣に流れを考えてやってみた。
ラーメンの時もそうだったけど、先にネギを刻んでおくべきだった、だとか、用意するトッピングの手順が抜けていたり、何かひとつのミスがあると、それをどこでカバーしようかとか、忙しなく考えながら台所で立ち回る事になる。
それにしても、かなり準備万端だった。「うっしっし!」と言いたいほど、良い出来だったと思う。
混合出汁を多めに作ったので、余った分を、ガラスポットに入れておこうとして、ガラスポットを落として割ってしまったけれど。
私は、ここでコケちゃいけないと強く思ったので、紙モップでガラス破片を集めて、掃除機ガーッとかけるなど、我ながら完璧な片付けだった。
麺類は総じて、調味料を多めに使う事になるし、それはラーメンのことだけど、下ごしらえの時にも、さとう・塩を大量に使うし、それでもコクがなくなるのは避けたいし。反省点としては、醤油が多かったんだ。反省した。もっと薄くても良かったんだ。
レシピの通りに、分量は厳密ではないにしても、計ったけれど。あれで、かえしの醤油が多かったんだ。
ああ、反省した。でも喜ばれて、私は嬉しかった。
混合出汁は、昆布ドッと、いりこパラパラ、かつおぶしは大胆にドーーー!と入れると。けっこう、ドーッでいいんだなということがわかった、蕎麦の場合は。出汁とかえしのバランスで最終調整しているようなものなんだ。と、すると、かえしの醤油は、やはりあのままでよかったのか。
出汁の何かを、もっとドーーーッ、とすればよかったのかもしれない。
12月24日 クリスマス・イブ 神様のご加護がありますように
クリスマスに向けて怒った絵ばかり描いてたなんて。それもまた、人生。
クリスマス・イブ。
街中に出かけていかなくなったせいか、クリスマスのムードも程遠い。去年は、アルバイト先で、余分にあったクリスマス・ケーキから1つをもらってすごくうれしかった。
検品しながら、各店舗向けのカートに、決まった個数を入れていく作業で、そのクリスマス・ケーキをいただいた。おいしかったな。うれしかった、ホントに。
ところで、今年は、そういった、チームで流れ作業になるアルバイトは身体に無理そうなので、探すのもやめてるし、その辺にまつわる事情で、仕事はしなくてもいい事になっている。家の中では。
とはいえ、もしも来年になって気が向いたら、業種は狭まるけど仕事を探してみようかとも考えている。
というのは、つい最近、父と私は非常にギスギスしてしまったので、そこまで言うなら家にいないほうがいいんだな、と、判断したため。
「家にいないほうがいいんだな」というのは、この判断内容も、居なくなってしまう最北端から、顔を合わさないだけの最南端と、程度の問題がある。
「出て行け」と言われたわけではない。出て行こうと思えば、出ていけるので「出て行け」とは当然ながら言われるわけはないし、そうなったら別の対応というのが始まる事になる。
私は私で世帯主であるわけだし。
父としては、自分の独善的な振る舞いということについては、反省して話し合うということが、いっこうに、お互いにあったためしがない。
私と父との関係については、母が取り成しているような関係になっている。
といっても、父は私を「信用のおけない、今では子供とも思っていない」というわけではなくて、そこは温度差というものだな、と私も理解はしているが。
そこで、これが私の兄、妹、私の3人の子供と両親という、40年も昔の家族関係だけで見てみると、何もでてこないかもしれない。
なぜ、なにも出てこないのかというと、その5人のそれぞれが作る関係性の中での「家族」というのは、誰がどう見てもたかが知れている、自分たちひとりひとりが、家族についての作文を、もしも5人それぞれが公表したとしたら、あまりに地味でその分誠実で平凡で、やはり5人はそれぞれ5人の誰かを取り成して、丸く平和におさまるストーリーにしかなり得ないような、それほどまでに小さく、内側の消失点へと向かう時間を共有しただけともいえる、まれに平和な時代で幸福な時、・・・と、続く収まり方しか見出せないように思える。
ところが、今では、兄は家族を作り、生まれた子供たちは家族を作り、妹も嫁いで家族を作り、生まれた子供は家族を作り、だ。そういうふうに、消失点へと向かうのではなくて関係性を拡大しながら、薄まってゆく人間関係を親族的につきあう。各自当人のなかで一体誰が、その結びつきを、「家族」と考えているのか。
「家族」の概念と心情というのは、そこのところが一様にはならない。
母は、相変わらず、核心を為す内実は閉じた系にいる。
父は、まるで会社組織のように「家族」を経営しているが、内実が齟齬を起こしている。
そして、父と母は、私を「どこの枠にも収まらない子供なのか他人なのか、異物なのか」結論は、分からないでいるんだ。
結論は、分からないでいるということだ。
これは分析ではなくて、塗り絵の色塗りみたいなものだ。
30年前、デザイン会社にいた時、数年先輩のデザイナーは「色彩には、コレは間違い、コレは正しいというのはないんだ」と、色指定の記号を版下を覆うトレーシングペーパーに細かに書き込みながら、言っていた。
営業担当が「これ、ピンク多すぎないかい?このチラシ車屋だよ」とは注文をつけていた。
それで、曽祖父の代からの家族の末裔である、父母は、父を家父長政権の首相みたいなもので、その組織の運営は、母が取り成しをするという形で、家の内部も遠方親戚にもそれでうまく行っていた。
だから、母は、私と父が今回みたいにこじれると、時間をおいてから、電話か直接私のワンルームにやって来ることもあった。胸騒ぎなのか、なにやら母方の昔、10人兄弟プラス父母のかつて大家族のなかで、末っ子から2番目の子だった頃を想像させる。たぶん、いつも母は大家族でそうやって過ごしてきたんだろうと思わせる、いつもよりも歯切れはいいけど声が今にも震えて崩れそうな、でもはっきりした話し方をする、肝心のことは自分は言わない、意見になるようなことは言わない。
でも、動揺している。同じことを繰り返し言ったりすることもない、明晰に聞こえる、きっぱりとした口調でさえある。それでも、語尾から崩れてしまいそうな、ブルブル震えているのを落ち着かせようとしているようにも聞こえて来る。
「身体、具合悪いのかい?今日、来なかったから心配したんだよ。テレビばっかり見てる・・・「わかば薬局」行ったら、シャッター閉まっててね・・・声聞けたから安心した・・・」
取りなすという役割のために、自分には本心が別にもあるという話は絶対にしない。
「家族」には、それぞれが役割があると、誰か言ったのかも知れないが、そんな何か役職があるわけでもないのに、いつもそうしてきたから、死ぬまでは役割に殉じるしかないというインセンティブは強固だ。個人の一生を司っているようなものだ。
父は、昨日どんなようすだったかというと、毎月一回通院している病院に、私が自家用車を運転して送ってあげて、その帰り、要するに父も母も饒舌なんかじゃないんだ。口下手の類だ。
「・・・あー、家来て、コーヒーでも飲んでくだろ?」
といつものように言うから
「いやいいよ、みんなによろしく」と私は応えた。
「みんなによろしくか、・・・はいはい」
最後には冷たく背をむける。
きっと父は40代や50代働き盛りか、若い頃でもあったなら、車のドアを思いっきり音を立てて閉めたはずなんだ。
背中を向けて閉めた割には、きちんと、ドアはそれなりに音を立てて閉まった。
精神分析ではないんだ。それは医者がやることだ。
これは、色塗りだ。塗り絵だ。
ここまできて、ようやく私は自分のことを言う。
兄弟3人と父母との5人家族、そこには祖父も祖母もいたのに、子供の私には、そんな連綿と繋がっている大人の葛藤なんかわかりもしない。親しさや疎遠さだけの、それ以外は信頼でしかないものが「家族」であった。「家族」は閉じた系であっても、破滅的な解放系や収束系であっても、その系が何かを担ってくれたとしても、大事な大事な時間であったとしても、それはそれ。
それよりも、自己意識というものだ。自分にはどこか自覚的な異物感があった。
その異物感を、悪賢く染め上げることも、清廉な人生前向きに仕向けることもできただろうな、と思う。私の異物感というのはそうなんじゃないかと思う。
クリスマスおめでとう。
神様のご加護がありますように。
12月21日 昨日の夜中に作った牛丼の具は、まあまあの出来
夜中12時近くなって、「明日牛丼食べよう」と思って、レシピ通りに、調味料も計って、それでぐつぐつ煮ていたら、だんだん、気分が悪くなって、それほどではなかったけど、胸やけみたいな。これで眠ってしまっては危ないと思ったので、タイマーを10分にセットして、横になった。
パン工場で働いていた時に、出勤したての初日、そこのベテランさんが「気分悪くならないかい?」と、聞いてくれて、その時も、それほどではなかったけど、パンの匂いと退勤時間間近にはお腹が空いていたので、匂いが堪えて、やや胸焼けみたいではあった。
食品の強い匂いっていうのは、ずっと匂いがただよっていると、慣れるまではすごく鼻につくというのはある。パンのあの発酵した甘い匂いは、好きなので、スーパーに行った時に、プウ〜ンと漂っていると、「パン工場の仕事、好きだったのにな」なんて、思い出していた。
たいへんだったけど、好きな仕事だった。
昨日の夜は、思いがけず、牛肉と牛丼タレの甘い匂いが、「こんなんだったかな?」と思うほど、強く感じた。
肉臭さを軽減するための、生姜だけではなくてなにか方法があるはずだ!
と、それで、今日は、肉を柔らかくするコツと、牛肉の強い肉臭いのをとる方法を調べた。
味は薄味だけど、いい味かなと思ったので、実家に持って行ったら、喜ばれた。
今日は、マカロニ・サラダ。
毎日、天気予報が気に掛かる。刻々と変化する気象情報から、気が逸れることはない。
12月20日 イオンのチャーター機で買い物ツアーに参加する夢
今見たら、左上の、観客席なのか審査員席なのか、別な紙に描いたのを貼り付けたのかな?
「基本は何でもいい、投げやりでいい」とそう考えていたにしても。
どうかなあ・・・と、思う。
イオンのチャーター機で買い物ツアーに参加する夢を見て、目が覚めた。いつもは、薄ぼんやりとして、忘れてしまうので、見た夢を忘れてしまうなんて、モウロクを感じてしまうこと。
けっこう、目が覚めても鮮明だった。悪い夢ではないのだったら、夢を覚えていられるのは喜ばしいことだ。
場所は、北24条のサンプラザと思しき、車寄せに併設されている駐車場に、空港へと向かうバスが到着している。
サンプラザらしきエントランスの中で、私は順番にシャワーを浴びて、身支度整えてから「これがそうなんだな」といったことを、感得している。
夢なので。
それで、親しみを感じる見知らぬ女性と、ひとことふたこと、立ち話をする。
その女性は、IT関連の事業家のようで、ツアーでコンピューター関係のお買い物を済ませて来るんだと。
コンピューター関連といえば、私はパソコンの外観くらいしか知識を持ち合わせていないので、即座に、マウスとか?マザーボードがどしたとか?何の用を足す物だか分からない、四角い箱、さまざまな四角い箱を、私は夢の中で、セールカゴに積み上げられた、それらを思い浮かべている。
そして、シャワールームは、なかなか空いてくれないで、待たされている。
バスに乗り込む人たちが、窓外に見える。
受付にも人が並んでいて、整理券のようなカードを受け取って、バスの列に向かっていく。
シャワールームが、空いてくれないでいて、近くのドアが開いたと思ったら、そこは、車椅子の人用で、私が使うわけにはいかないと、ためらわれる。
奥の方のシャワールームは、清掃中となっている。いくつかあるドアはどれも使用中になっている。
それで、人の行き来が多いのに、シャワールームのどこにも私は入れないで、エントランスの窓きわまで、戻って待つことにした。
そうしたら、受付の列が前に進むので、流れにのってしまった。
そうしているうちに、コンピューター関連の買い物と言ったって、そんな大金用意できないし、ほしいものが何も思い浮かばない、ということに思い至って、
そこから出て行きたくなった。
出て行きたいな、誰かに断らなきゃならないのかな?と考えて、列から離れたところで目が覚めた。
12月15日 数年ぶりにタバコ吸ったら、おいしかったー!
母が風邪ひき中なので、実家の昼、夜ご飯など手伝うことにして、食卓に座っていたとき、
父が、ニコチン・タールが共に1mgのロング・サイズのほうのタバコを吸っているので、なんとなく、どうせ、また吸ったら苦くて、喉がひりひりして頭がクラクラするだけだ、と、思って、ふざけた顔して、「一本もらおうかな?こうやって、ひとからもらった時だけ吸う人っているんだよね」と言って、吸ったら、なんだか、ひりひりしなかったし、タバコ臭さもかすかに匂って、まさしく一服した気持ちに満たされた。一日一本だったら、これはいい。
今度から、たまに、一本もらうことにしよう!
それで、自分ところの冷凍庫から出して冷蔵して数日過ぎた、豚の薄切りロース肉を生姜焼きにして持って行った。夜は、味噌汁用に、ニラとなめこを持って行った。
牛乳から分離させたホエーに塩・リンゴ酢入れて、野菜数種類を漬け込んだサラダを、父は、野菜を浸して冷やしスープになった、その味もおいしいと飲んでいた。予想外だった。ロース肉よりも好評だった。
母は、「ちい力(自己治癒力のことを言っている)で治すからいい」と、言って、病院は断固行きたくなさそうだ。