11月27日 生きる意味を確定することはできないけれど、腹を据えないとならない

過去作品/「幼稚と言う勿れ」

仮眠の後、目が覚めたら「家に期待したことなんて一度もないだろう!?」と自分が、モヤモヤ考えるのをばっさりと切り捨てる、そういう考えが降って湧いて、それで目が覚めた。

家のあらましということを、くどくど考えていたら、まるで国家間の民主的な行きつ戻りつ、押しつ押されつのような、どこかにあてがあるわけでもない、でも各々国家は、密かに牽制したり独自に欲望もあるだろうし、若い国家は特に生きる意欲にあふれるだろうし。どうにか、自分がいる立場を整理して納得するには、各人が各国家とまで考えないと気が済まないきになった。

それで、仮眠から覚めてカール・マルクス著植村邦彦訳『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』をいきなり読み出した。途中まで読んだ、しおりが挟まっているけど、ぜんぜん覚えていない。数年前、内田樹氏が、この本をカール・マルクスの慧眼を褒め称えていて、それにつられてAmazonで購入して、途中まで読んで、難しいので、何度か拾い読みしていて、諦めるを繰り返していた。また、読んでみた。

そんなに、長ったらしく考えていたわけではないけど、あまりにも冒頭が有名らしくて、なるほどな・・・と、また、そこそこの途中で読むのをやめた。

他人から見ると、他人というのは、筆頭は両親であり、両親の夫婦的な関係。兄であり、義理の姉であり、今では姪っ子家族も甥っ子家族もいて、そこの家族。家族の関係。妹であり、妹の旦那さん、甥っ子姪っ子、家族の関係。それで、私はどうかというと、家族を構成しない独身で、単身であるから、関係というのが有意に理屈を講じることがない。そういう関係。関係性の構成の中では自分は、相変わらず外にいる。しかし、自分がそれを疎外感として、時としてあちらの家族こちらの家族と共にいるときに、培われた「疎外感」をひとつのクッションとして、つまり私は自分自身を説明しないと話は始まらないために修辞のようにして告げたとすると、おそらく、否定されるだろう。そこも理解できる。自分も理解できる。しかし「家族」や「家」を考えた時、タブーみたいな、除外され否認される観念があるのも理解できる。

「家」というのは、どうやって見てもそうだ。他人から見えた姿は、見えたその後に姿を変える。夫婦もそうだ。だから私は、家には依存しているのに家には期待しないという格好になる。そのことを咎められたこともないし。

まだ、視点を変えてみることができる余地がある。

余地があるということ自体、制度だということだ。

悪魔のいけにえ」か、「死霊のはらわた」だったか。理屈をこえるということは、冷静な正論であっても、喩えとするならその世界だろうという意味で「悪魔のいけにえ」ではないかな。だから、未だ理屈の範囲内だなと、自分では思う。

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それにしたって、「単身者」であることでこうむる不利な立場というのは、わずかな事にすぎない。

一人の人間をターゲットにしたり、追い込むというのは。

それよりも、やはり「国家」だ。

「国家」にまつわる暗号だ。

これら、それらは暗号なんだ。

やややや・・・・、あんまり長いこと、こうやっているとページから自動的に遷移しそうになるので、やめる。

Amazonで、『ブリュメール18日』に関連する本を見ていて、なんだか、その時代のこととか、漁ることもできて。

なんだかな・・・。