亀井さんのひとり芝居コラボ『晴れる夜に誰かの寝息が聞こえる』を観る

クリスマス・シリーズ展によせて、小品

劇団の芝居1996年『夕日のきれいな朝日荘』のシーンをイラスト化したもの。

 

昨日、ツイキャス配信で、亀井さん主演、音楽とのコラボひとり芝居『晴れる夜に誰かの寝息が聞こえる』を観た。

最初に聞こえてくる音楽が素晴らしかった。ミニマム・・・じゃなかった。なんというんだったか、あの、実験的な、繰り返す音楽。ジャンルはわからないけど、たまに、アップルのジャズ・チルや、グローバル・チルにも、似たようなスタイルでムードに浸れる楽曲が聞こえてくることがあって、印象的に。そういう音楽。

ジャズやグローバル・チルにも、なんだかアンビエントというのか、ジャズではないようなのがかかるので、あれは不思議な気持ちになる。

それはいいとして。

なんて言ったっけ。坂本龍一も、そちら系のはず。

 

コラボ芝居だったからというわけではないけど、自分の、かつてコラボで参加していたことを思い出さずにはおられなかった。

だから、私は、この人、亀井さんはこの演劇的な空間が、日常の空間時間とは明快に切り離せているわけではなく、だから、自分ひとりがセリフで言いきってしまうわけにはいかない、そういうフィクションと現実との振れ幅が広い生き方、どこかでバツンと切れる生き方ではなくて、グラデーション幅が広いのでどこから役者でどこからが日常生活の人なのか他人からは分かりずらいという、そういう生き方をしているんだな、と思うことにしたんだと思う。

どういうことかというと、亀井さんという人は、舞台で、全くアーティスト然としているかというと、そうではなくて、だから、言葉も語数も、わりと限られた使い方をしているように思えて、役者ではあるんだけど・・・と思う。

新奇性や、饒舌さ、人柄がエキセントリックというわけでもない。

舞台の真ん中に立って、喋っているのを聞いていると、ふつうの日常で聞く言葉のありようを

本人がいつもそうだという感じで自然に話しているように、こちらには聞こえてくる。

セリフの進行にはストーリーがちゃんと読めるようにあるし、心情を吐くように言うシーンだってある、と。芝居のセリフらしいセリフが、それでも言い足りていなさそうに、セリフはそんな感じがする。でも、思えば、亀井さんの芝居は、その脚本はいつもそうだ。決定的に、何かをガツンと言っているわけではない。

踏み込んで、言ってしまうことをしない。

 

日常的な、その人のカラーそのままで、その人が日常的に持っている空間の色合いの濃い、見方を変えると、そんな日常性のそのままの、歩き方みたいな服の着方みたいな。

言葉がひとつふたつ足りなくさえ思える、その日常の、今時の言葉でいうなら「沼」みたいなところか。ふみとどまらせている、としたら、それって。

その日常の物理量、そのままみたいなセリフが「そこがどこか」を言い得ない芝居。

それなのに、腑に落ちる想いにとらえられる。

それだから、共感し、心が癒される思いがしたんだ。

その世界がどこにでも誰にでもあることのように思えてきて、それだから言い得ない、みたいな。

痛みについて、それがどこにでもある世界。自分とは、遠くないと思える。

私は、タクシー運転手の時も、仕事をしていると常にそうだった。歯軋りしたいくらいに、たくさんの制約があると思っていた。で、タクシー運転手を辞めて時間が過ぎて、何か言うことが増えたり変わったりしたかというとぜんぜんそんなことはない。

両親がトシをとって、トシをとった両親は丸くなって、私には、二人は見守らねばならぬ人へと、二人とも変身してしまったようだ。私も、トシをとったのに。

それなのに、私は、かつてと同じように同じ境遇にいる。ということは、言うべき時機というものがあるとか時機を待てということではなくて、これはそういうことなんだ、ということなんだ。

私は、自分が昔、参加したコラボをはからずも思い出してしまって、自分は自分のことをわかっていなかったことに、数十年たって悔恨を混じらせようやく気がついた。かといって、亀井さんには、コラボで自分のことをわかっている、それともわかっていないと、私の評価軸を、今、言いたいのではないってこと。それとこれとは、まったく重なるところはなくて、私は、亀井さんのコラボを観ながら個人的な思い出に苛まれて、だのに、亀井さん方々の「コラボ」に大いに現実の今の自分が共感していた、というのは、事実なんだ。

音楽とのコラボでなければ、これ以上何かを言うことは苦痛でしかない。

共感した私は、自分に向かって、たぶんそう言いたいんだ。

共感とは、時を同じくして、という感覚。

観る私が音楽に救われたように、演じる亀井さんは音楽に救われて、ひとり芝居は音楽に十分依存したものだったんだろう。

(「依存」は、どう思われるかわからないけど、私はよく使う言葉なので)

 

 

「日記」に書いてしまった。こういうのこそ、「ブログ」にすべきだった。

私は、ますます、暗号系という意識が強くなる。

というのか、哲学は暗号系の筆頭みたいなものではないかな。