12月1日 鮭切り身を焼き魚 / 牛乳でホイップクリームが作れるはず
このシリーズは、全紙サイズ(457㎜×560㎜)・ケント紙で、私はまず、紙に向かうと真ん中から、ヌヌヌヌーっと描き始めていた。真ん中から、おまけに紙は横長を地平にあわせて・・・、風景画が安定する位置で・・・ということは、それは即興的だったので、納得しながらではあったけど、自分としては、習慣化したその描き方に、どうしたもんかなとは思っていた。
画家になるなら、職人的な風景画家を目指すべきだった。
早い話が、職業どうのこうのよりも、憤懣のほうが、私の等身大の人生を上回っていた。
呼吸するのに、時々、憤懣の海の水面から顔を出しているようなものかな。
時々は、思う。海のイルカでも海亀なども、水の中にいて「呼吸している」という意識はあるのかな?水中でも、大気の中でも呼吸できるって、どういう感覚だろう?感覚に「こうですよ!」と、訴えるものがあるのかな?と。
私にできることは、分解バラバラではなくて、描きかけを装う、途中でブツン!だった。
それを、「途中でやめるってのは、「今」ですね」と、感覚的に理解を示してくれる人はいた。
私は、せいぜいが、残酷な人間ではないんだ・・・。ということを誰かとそんな話、したことはなかった。
昨日、雪が降って、遅い初雪だったはず。今朝は道路にも雪が溶けないで残っていた。夜に、マイナス5度Cだなんて、これだから、降り続くとあっという間に、40〜50センチになる。
牛乳1リットルを温めながら、酢を足して、それで、ホエーとチーズみたいになるのを分離させて、ヘラで撹拌したらホイップクリームになるはずだったけど。牛乳味のカッテージチーズみたくなって、混ぜても混ぜてもホイップクリームになってくれなかった。牛乳味は、チーズ味になってくれないし。冷やして、どうするか考えることにした。ホエーは、塩を入れて、野菜を漬け込むといいらしい。
明日にすることにした。
11月28日 共有ゴミボックスと通路を掃き掃除した
クリスマス・シリーズの過去作品を探したけど、あるんだけど。あとにすることにした。
マスクのせいなのか、それとも肝臓の持病のせいなのか、確かにかゆい。それで、かゆみを放っておけない。来年、また春先に、検査をして進行状況など調べることになっているけど。
去年の今頃は、今みたいな症状の気がつきかたはしていなかった、ということに気がついた。お肌の、乾燥肌とかに気がつくとか、そういう全体のかんじではなくて、ヒリヒリしてるのかザラザラしてるのか、どっちなのか、じわっと耳がかゆみがでたりとか。薬も飲んでいるから、消えたりするのは薬のせいなのかとか。
マスクすると、顔じゅうかゆすぎる。だんだん外に出るのが嫌になる。世捨て人になってきた。腰も痛い。
目が、乾きのせいなのかかゆい。
辛い時は、神様にお願いすべきと思う。でも、これは、まだまだ序の口。辛いっていうのと違う。人生の大半ではある身辺に差し障っているさまざま、ジャンルがそうなので、頭の半分をたった今占拠されてるなら取り上げるべきは今しかない!のだけれど。
でもこれは、あまり興味ない。
病いが、少しでも快方に向かうと、幸福感に満たされる。助けられた動物とかも、そうなんだろうな、あの気持ちはわかるなあ・・・なんて、想うなあ〜
11月27日 生きる意味を確定することはできないけれど、腹を据えないとならない
仮眠の後、目が覚めたら「家に期待したことなんて一度もないだろう!?」と自分が、モヤモヤ考えるのをばっさりと切り捨てる、そういう考えが降って湧いて、それで目が覚めた。
家のあらましということを、くどくど考えていたら、まるで国家間の民主的な行きつ戻りつ、押しつ押されつのような、どこかにあてがあるわけでもない、でも各々国家は、密かに牽制したり独自に欲望もあるだろうし、若い国家は特に生きる意欲にあふれるだろうし。どうにか、自分がいる立場を整理して納得するには、各人が各国家とまで考えないと気が済まないきになった。
それで、仮眠から覚めてカール・マルクス著植村邦彦訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』をいきなり読み出した。途中まで読んだ、しおりが挟まっているけど、ぜんぜん覚えていない。数年前、内田樹氏が、この本をカール・マルクスの慧眼を褒め称えていて、それにつられてAmazonで購入して、途中まで読んで、難しいので、何度か拾い読みしていて、諦めるを繰り返していた。また、読んでみた。
そんなに、長ったらしく考えていたわけではないけど、あまりにも冒頭が有名らしくて、なるほどな・・・と、また、そこそこの途中で読むのをやめた。
他人から見ると、他人というのは、筆頭は両親であり、両親の夫婦的な関係。兄であり、義理の姉であり、今では姪っ子家族も甥っ子家族もいて、そこの家族。家族の関係。妹であり、妹の旦那さん、甥っ子姪っ子、家族の関係。それで、私はどうかというと、家族を構成しない独身で、単身であるから、関係というのが有意に理屈を講じることがない。そういう関係。関係性の構成の中では自分は、相変わらず外にいる。しかし、自分がそれを疎外感として、時としてあちらの家族こちらの家族と共にいるときに、培われた「疎外感」をひとつのクッションとして、つまり私は自分自身を説明しないと話は始まらないために修辞のようにして告げたとすると、おそらく、否定されるだろう。そこも理解できる。自分も理解できる。しかし「家族」や「家」を考えた時、タブーみたいな、除外され否認される観念があるのも理解できる。
「家」というのは、どうやって見てもそうだ。他人から見えた姿は、見えたその後に姿を変える。夫婦もそうだ。だから私は、家には依存しているのに家には期待しないという格好になる。そのことを咎められたこともないし。
まだ、視点を変えてみることができる余地がある。
余地があるということ自体、制度だということだ。
「悪魔のいけにえ」か、「死霊のはらわた」だったか。理屈をこえるということは、冷静な正論であっても、喩えとするならその世界だろうという意味で「悪魔のいけにえ」ではないかな。だから、未だ理屈の範囲内だなと、自分では思う。
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それにしたって、「単身者」であることでこうむる不利な立場というのは、わずかな事にすぎない。
一人の人間をターゲットにしたり、追い込むというのは。
それよりも、やはり「国家」だ。
「国家」にまつわる暗号だ。
これら、それらは暗号なんだ。
やややや・・・・、あんまり長いこと、こうやっているとページから自動的に遷移しそうになるので、やめる。
Amazonで、『ブリュメール18日』に関連する本を見ていて、なんだか、その時代のこととか、漁ることもできて。
なんだかな・・・。
11月26日 サバの塩焼き
今になって、こんなこと言うと笑われるの当然だけど、売ってる魚の骨抜いてあったから、驚いた。よくよくみたら、「骨抜き」と書いてあった。スーパーから買ってきた塩サバを、焼くためにユーチューブを見ながら、メモして、骨抜きが時間かかりそうだな、日本酒で臭みをとるのか、5分でいいのか、そうか冷蔵庫に入れる方がいいのか、などなど、下準備にかかる時間を考えて、いざフライパン用意して、などなど調理の準備をしだした。骨抜いてあったから、工程の一つが要らなくなってしまった。おまけに、「海のものは身から、川のものは皮から焼く」のが基本だということだけど、いくつかのユーチューブ動画を見ると、焼き方は人それぞれみたいで、よし!身から焼こう・・・と思ったのに、フライパンでジュー・・・となってるのを見たら、皮から焼いていた。
それにしても、スーパーで売っているのは、あれは既に調理済みみたいなもので、拍子抜けしてしまった。でも、おいしかった。ユーチューブの一つの動画を参考にした。
ニシン漬けが、日にちを置くにつれて、見た目、かなり無惨になってしまった。
でも食べた。
11月24日外は風が冷たくなった。ニシン漬けの出来と、などなど
名前を考えるのが好きだった。この頃は、ガリバーと筆名を書き込んでいたら、友人知人が、私をガリバーさんと呼んでくれて、付き合いにはゆるくて親しみのある、遊びがあった。そういうのは楽しかった。でも、中古車屋に「ガリバー」があるし。それに、間借りしたような仮につけたようなものだし、アメリカだったかの現代アートの人だったかで、ガリバーと名乗る日本人がいて、モノクロ作品を制作している人の、その絵が、一番好きだった、その頃。
そんなこんなで、遊んでいた。
この絵は、自分でも好きで、天気図にあるような等高線みたいな線、波長の領域みたいになっている線部分の筆跡が原画よりも印刷の方がくっきり出ていて、そんなところが自分では好きだ。額装してあったのをそのまま知り合いにプレゼントした。数年後に、私は図々しくも「返してほしい」と言ったら、失くしたと返事されてしまった。
この絵は、500枚くらいDM用に印刷に発注して、ポストカードを作って、今だに余って持ってるくらいなので、失ってしまった!という気にならない。原画を取り戻したいとか、そうは思わない。でも、額縁も、けっこう好きな額縁だった。
ところで、
もうちょっと、肉や魚の下ごしらえを学んで、経験していかないと、なかなか納得の料理には辿り着けない。というより、肉や魚は、下ごしらえだなぁ。いい勉強になっちゃった。
「日記」というのと「ブログ」という、ダッシュボードになっていて、こちらダッシュボードを日記にしたはずなのに、ついつい間違う。昨日は「ブログ」に日記を書き込んだ。
そうやって、右往左往しながら、分かっていながらあいまいにしているような。
こっちが日記なんだけど、でも、ときどき間違うのがいいのかもしれない。
11月22日
30年ほど前に、それらしく描いた絵は、それらしい感じになるように描いた。ポップな感じ
になりたかった。センスがよさそうな、意味が適度に分散するように。
だから、塗りつぶしが多くなった。見ているうちに、何にも見えなくなる手前まで、黒か白で
塗りつぶす方が、感触がよかった。感触がいいというのは食事で言えば、おいしいという。
おいしく見えるかどうか、という。おいしいということについて、調理人みたく、分解して考えるということはしなかった。私の絵は、そこそこ絵心のあるという、そういううまさだ。
だけど、おいしく見えるという絵ではなかったので、そこが自分で密かに気にするところだった。絵の具が、アクリルだとかえんぴつだとか、材質を主張してくれてもいいんだけど。
でも、おいしくみえるかどうかは、もういいことになった。