12月14日 『くじ引き民主主義』吉田 徹/著 について

クリスマス・シリーズ

タクシー運転手の制服ポケットから見つかって、安堵する夢を見る。夢の中で、兄夫婦が出てきて、どこかへでかけて行った。ひどくあいまいに、思い出すのもあいまい。

父が、冬になったら吊るすことにしている風除け用の網を金具に引っ掛けているときに、手にけがをして、としのせいもあって、手の甲一面を青くしてしまった。血管が細いので、少しでも傷つけると、青タンみたいに現れる。

としのせいだ、という話をする。母は、鼻風邪がまだ治っていない。

父は自分のことを、「うっかりしてるからけがをしてしまう」と言うので、私は、「お父さんは頭がしっかりしてるから、死ぬ間際でも、こんな死に方したくなかったのにな、なんて考えてるかもよ」

と言った。

 

金曜日、ZOOMの読書会にむけて『くじ引き民主主義』 吉田 徹 / 著 を集中して読む。

今の日本の現実と本書の提示する理念とは、なにやら乖離してゆく感のある、思想として実現のための方法論。啓発というのか啓蒙書を読むということは、何らかを誰かに告げたい、そうやって、知識や情報が外へと、ほうっておいても流れていくのは、情報とはそうなるようなものだった。情報というのは、勝手に漏れて伝播していくところがあるはずだった。

そんな感じがしないのは、世相が、本書の理念に反する政治状況のほうに大きく引っ張られているからだろうと思う。

今の、日本の現実が、民主主義を劣化させないために民主主義の理念があり、今の代表制民主主義における幻滅を期待へと置き換えていくことを目指しているはずの、民主主義下のその今の政治状況が、反対方向へとズルズル進んでいる。

人々が行動し物事が実行され続けているということは、常態としてその理念が尊重されつつ、なお制度イデオロギーは更新して行ってるはずだろうから。

だから、その思想やジャンルが、この場合は民主主義が、制度や行動の源泉としてまたはインセンティブとして、なお堅固なものとその都度確認されながら継承されていくはずだ、というところが、乖離してきている。

行動がうまくいくとはどういうことか、それを今どきの言い方考え方をするなら、行動を促すOSがそのままバージョン・アップであるはずなんだ。だけど、劣化している。代表制制度ゆえに。

世襲制の、誰それをFキーみたいに確保していくことは民主主義を劣化させることだった、ということに気がついてはいるんだ。

コンピューター用語で言い換えるのは、適切ではないといつも思っているはずなのに。でも、自分の行動の半分を、たぶんそちらに委ねているからなんだ。こんな言い方は。

民主主義によって民主主義の劣化を食い止めることができたなら、それは政治に帰っていくはずだ。民主主義を立て直すということは政治の悪化をくいとめる事へと帰っていく、という考え方だ。

というほどに、政治状況はひどいみたい。

支持率、20%台、30%台で、政権が維持されているなんて。

おまけに問題、山積み。

法律って難しい。統一教会問題で、解散させるとそれはそれで何が問題になるんだったけ?

国会で議論しないで、敵基地攻撃の、決まったんだっけか?

ロシアとウクライナの戦争を「民主主義VS.権威主義」との軸で見るのを、その見方には批判があったのを、私はよく読まなかった。どうしてだったんだろう?

民主主義の劣化について、本書に書かれているのは代表制に起因されるものとして統計が提示されているけれど、その他に、たぶん、そこがまたまた他にもぞろぞろ何がある?と、いうところか。何だろう?ちらっと調べてみよう。

 

がんばってください。

わかりましたー。

 

 

 

亀井さんのひとり芝居コラボ『晴れる夜に誰かの寝息が聞こえる』を観る

クリスマス・シリーズ展によせて、小品

劇団の芝居1996年『夕日のきれいな朝日荘』のシーンをイラスト化したもの。

 

昨日、ツイキャス配信で、亀井さん主演、音楽とのコラボひとり芝居『晴れる夜に誰かの寝息が聞こえる』を観た。

最初に聞こえてくる音楽が素晴らしかった。ミニマム・・・じゃなかった。なんというんだったか、あの、実験的な、繰り返す音楽。ジャンルはわからないけど、たまに、アップルのジャズ・チルや、グローバル・チルにも、似たようなスタイルでムードに浸れる楽曲が聞こえてくることがあって、印象的に。そういう音楽。

ジャズやグローバル・チルにも、なんだかアンビエントというのか、ジャズではないようなのがかかるので、あれは不思議な気持ちになる。

それはいいとして。

なんて言ったっけ。坂本龍一も、そちら系のはず。

 

コラボ芝居だったからというわけではないけど、自分の、かつてコラボで参加していたことを思い出さずにはおられなかった。

だから、私は、この人、亀井さんはこの演劇的な空間が、日常の空間時間とは明快に切り離せているわけではなく、だから、自分ひとりがセリフで言いきってしまうわけにはいかない、そういうフィクションと現実との振れ幅が広い生き方、どこかでバツンと切れる生き方ではなくて、グラデーション幅が広いのでどこから役者でどこからが日常生活の人なのか他人からは分かりずらいという、そういう生き方をしているんだな、と思うことにしたんだと思う。

どういうことかというと、亀井さんという人は、舞台で、全くアーティスト然としているかというと、そうではなくて、だから、言葉も語数も、わりと限られた使い方をしているように思えて、役者ではあるんだけど・・・と思う。

新奇性や、饒舌さ、人柄がエキセントリックというわけでもない。

舞台の真ん中に立って、喋っているのを聞いていると、ふつうの日常で聞く言葉のありようを

本人がいつもそうだという感じで自然に話しているように、こちらには聞こえてくる。

セリフの進行にはストーリーがちゃんと読めるようにあるし、心情を吐くように言うシーンだってある、と。芝居のセリフらしいセリフが、それでも言い足りていなさそうに、セリフはそんな感じがする。でも、思えば、亀井さんの芝居は、その脚本はいつもそうだ。決定的に、何かをガツンと言っているわけではない。

踏み込んで、言ってしまうことをしない。

 

日常的な、その人のカラーそのままで、その人が日常的に持っている空間の色合いの濃い、見方を変えると、そんな日常性のそのままの、歩き方みたいな服の着方みたいな。

言葉がひとつふたつ足りなくさえ思える、その日常の、今時の言葉でいうなら「沼」みたいなところか。ふみとどまらせている、としたら、それって。

その日常の物理量、そのままみたいなセリフが「そこがどこか」を言い得ない芝居。

それなのに、腑に落ちる想いにとらえられる。

それだから、共感し、心が癒される思いがしたんだ。

その世界がどこにでも誰にでもあることのように思えてきて、それだから言い得ない、みたいな。

痛みについて、それがどこにでもある世界。自分とは、遠くないと思える。

私は、タクシー運転手の時も、仕事をしていると常にそうだった。歯軋りしたいくらいに、たくさんの制約があると思っていた。で、タクシー運転手を辞めて時間が過ぎて、何か言うことが増えたり変わったりしたかというとぜんぜんそんなことはない。

両親がトシをとって、トシをとった両親は丸くなって、私には、二人は見守らねばならぬ人へと、二人とも変身してしまったようだ。私も、トシをとったのに。

それなのに、私は、かつてと同じように同じ境遇にいる。ということは、言うべき時機というものがあるとか時機を待てということではなくて、これはそういうことなんだ、ということなんだ。

私は、自分が昔、参加したコラボをはからずも思い出してしまって、自分は自分のことをわかっていなかったことに、数十年たって悔恨を混じらせようやく気がついた。かといって、亀井さんには、コラボで自分のことをわかっている、それともわかっていないと、私の評価軸を、今、言いたいのではないってこと。それとこれとは、まったく重なるところはなくて、私は、亀井さんのコラボを観ながら個人的な思い出に苛まれて、だのに、亀井さん方々の「コラボ」に大いに現実の今の自分が共感していた、というのは、事実なんだ。

音楽とのコラボでなければ、これ以上何かを言うことは苦痛でしかない。

共感した私は、自分に向かって、たぶんそう言いたいんだ。

共感とは、時を同じくして、という感覚。

観る私が音楽に救われたように、演じる亀井さんは音楽に救われて、ひとり芝居は音楽に十分依存したものだったんだろう。

(「依存」は、どう思われるかわからないけど、私はよく使う言葉なので)

 

 

「日記」に書いてしまった。こういうのこそ、「ブログ」にすべきだった。

私は、ますます、暗号系という意識が強くなる。

というのか、哲学は暗号系の筆頭みたいなものではないかな。

 

 

 

 

12月7日 イオンへお買い物 風邪2日目

過去作品

誰の影響を受けた絵かわかるでしょうか。ジェンダーフェミニズムの本を、若い頃に読んで、スイスイ読めてそれで腑に落ちるところがあった。本の著者は、上野千鶴子氏だとずっと思っていた。違う人で、名前をド忘れしたので、ここに書いておけないけれど。それで、本に感銘を受けて、本の表紙絵にもいたく感銘を受けた。ドローイング作品で、その画家も有名なはず。画家の名前をド忘れしてしまった。佐藤・・・だったか?当時は、ドローイングが、私には、やきとりの炭火の香り。

宮迫千鶴氏でなかったかな。絵は、谷川晃一氏ではなかったかな?お二人はご夫婦だった。

ネットで検索して、絵画を拾うと、詩情にあふるる。

かほり。

かほりちゃん。

 

物置を探しても、冬用ワイパーがなかったので、オートバックスに買いに行った。そういえば、去年の冬は、夏用ワイパーで過ごしたんだ。どうだったかな?忘れた。イオンにも行った。箱ティッシュがなくなったので買った。30円引きのホワイトマッシュルームを買った。

冬ワイパーが、フロントガラスを吸盤並みに張り付いて雪をほろう。古くなると、曲線の軌跡がガラスにいつまでも残るから、新しいワイパーが、面で雪を払っていくのは気持ちがいい。今日は良い買い物だったな、と満足のひと時を過ごして、帰ってきた。

来年は、小説を3〜4冊読もう。

 

12月6日 風邪気味

過去作品 / 思い出の

「昼間うたた寝して、目が覚めた時」だったか、そんなタイトルをつけていた。

ペンによる線画を、コピー機による白黒反転。めっちゃ、コピー機が大好きだった。

 

昨日、雪かきバイト会社に、今季の雪かきに回る家の住所録を受け取りに行ってきた。ふだん、滅多に出かけない地域だから、自家用車で走っていて一年ぶりみたいなものだから懐かしく感じた。各々のお家を思い出すと、皆様、ご無事で生きていらっしゃるでしょうか、と、思うんだ。今はまだ薄っすらと氷が張って、ところどころが白いがくらいでしかない道路が、2月頃になると、道路の両脇があんな雪山、高さが五メートルほども積もった雪山が延々と連峰をつくっているような、あんな雪道になるなんて、信じられない気持ちがする・・・と、思いながら。

帰ってきたら、なぜか喉が痛くて。今朝になったら、「風邪かな?」で、熱測ったら平熱、35度9分。これが、仕事がある身だったら、休むほどではない程度。

マフラーとタオル、洗濯した。

夕方、友人Nが、「ミシンかして?」と言ってきた。友人Nとは、1ヶ月くらい会ってなかったんじゃなかろうか?

情報交換みたいになった。

みんな、元気?っていう。

12月2日 寒くなったじゃない。冬靴、手袋、冬用コート必要

過去作品 / 3枚描いて。それで、適当に分割して、また全紙サイズに貼り合わせたんだ

「日本の子供の絵は、与えられた画用紙で、皆がそろってそのサイズの画用紙に描いている。外国の子供は、画材も紙の種類もバラバラだった。」何かどこかのコンテストだったんだと思う。何かの記事で、読んだ覚えがあって、忘れられない。

またまた、日本と外国を比較して、どうしようもないことを考えるのは、どうしようもない。クセみたいなものなんだ。

とにかく、この頃の私は、全紙サイズで、それでないと落ち着かないというのはあったんだ。

しょーもない。

クリスマスシリーズだって、レコードのLPジャケットサイズで統一して、それで描いたんだ。

最初に、枠を設けないと気が済まないのは、在来工法みたいなものだ。

今日は、姪っ子に二人目の子供が産まれて、病院から赤ちゃん連れて退院してきたので、

実家で、父が、ピザを買ってプレゼントしてくれたので、みんなで食べた。

昨日の、ホエーに塩足してリンゴ酢も入れて、トマト、レタス、きゅうり、茹でて冷ましたブロッコリー、玉ねぎなど漬けて、冷蔵庫に入れておいた。

雪かきバイトの業者さんから、連絡が来た。外、寒かった。歩いていて、寒かった。

家のことは、考えることはある。

考え過ぎて、**になるんじゃなくて、真面目に考えたい。真面目な、考え事がしたい。

夕方、野菜を買いに行った時、スーパーのトイレで、大*をした。タクシー仕事してた時に、お腹を壊して、・・・あれはないわ、・・・と記憶に残りそうな、顰蹙モノの***大会みたいになったことあったし、夜勤の時にも、ビルの公衆トイレに、長いこと座って用を足した時が何度かあった。

トイレ問題については、世の中、大きな声でいわなくてもいいけど、トイレ問題は人間の三大問題の一つだとの認識はほしい。

今日は、そんなこんなで、午前中から実家に行っていたので、ゆっくりトイレに座ってなかったんだ。